蘭瑛《ランイン》は夢うつつな状態で目を覚ました。
見たことのない四角形に区切られた天井の梁を、ぼんやりと眺める。 (ここは…どこだろう…) 蘭瑛の動きに気づいた梅林《メイリン》が、水の入った茶杯を持って寝台に歩み寄ってきた。 「おはよう、蘭瑛。気分はどう?」 眠っていた全身の感覚が徐々に蘇り、顔や頭、折られた脚の痛みが全身に走る。蘭瑛は、効果があるか分からない寛解の術を自分に施し、痛みを抑えながら「…大丈夫です」と言い、上半身だけ起こした。 梅林は水の入った茶杯を蘭瑛に渡しながら話す。 「ここは永憐《ヨンリェン》様のお部屋よ。昨日、湯浴みをしている間にあなた気を失っちゃって、ここで寝かせればいいって永憐様が…。一晩中、ずっと側にいてくださったのよ。永憐様は昨日のことを報告しに、朝早くから帝のところへ行かれているわ」 「…そうでしたか」 蘭瑛は少し間を空けて「秀綾《シュウリン》は?」と尋ねた。 「永憐様と一緒に帝のところへ行ったわ。今までのことを全部話すそうよ。あなたがこんな目にあって、皆責任を感じているわ…。もちろん私もよ。もっとあなたを気にかけていたら、守れていたかもしれないのに…ごめんなさいね」 蘭瑛は目尻を垂らして、首を小さく横に振った。 ここにいる者は誰も悪くない。悪いのは全て光華妃《コウファヒ》だ。皇后という立場を濫用し、賢人と服従関係を結び、自らの手は汚さず人を排除しようとする。 なんて卑怯で悪辣な女なんだ! 蘭瑛は怒りをぶつけるかのように、自由に動く左腕で掛け布団を叩いた。 心的外傷は身体についた傷よりも深く、後になってやってくると言われている。怒りと共に、段々と昨日味わった恐怖も蘇り、蘭瑛は目を赤くしてまた涙を浮かべた。 「蘭瑛…大丈夫?よしよし…」 梅林はそう言って、蘭瑛の背中と頭を交互に撫でた。 蘭瑛は、梅林の手があまりにも温かく感じ、母親に頭を撫でてもらった幼い頃を思い出した。 そんな感傷的に浸っていると、突然「ぐぅ〜」と情けなく腹が鳴った。 梅林は口元に手を当てながら、クスクスと笑いだす。 「お腹はいつもの蘭瑛のようね。美味しい芋粥を作ってきてあげる!それまで、少し横になっていなさい」 梅林にそう言われ、蘭瑛は口の中に溢れてくる涎を飲み込み、また寝台の上で横になる。 今は、傷の痛みで体力はすぐに消えてしまうようだ。 蘭瑛はまたうとうとと、梅林の粥も忘れて深い眠りについてしまった。 再び目を開けると部屋は薄暗く、隣の部屋から蝋燭の光が漏れている。 蘭瑛は梅林の芋粥を思い出し、ゆっくりと上体を起こす。 折れている右足をそっと寝台から下ろし、ゆっくり壁に沿って立ち上がった。 蘭瑛の動く音が聞こえたのか、隣の部屋にいた永憐が顔を覗かせる。 「目が覚めたか?」 「よ、永憐さま…」 蘭瑛は永憐に腫れ上がった醜い顔を隠した。 永憐はそんな蘭瑛の容姿など気にする様子もなく、蘭瑛に近づく。 「あんまり…近づかないでください…。酷い顔なので…」 「……」 「そんな近づか…」 突然、永憐に腫れ上がった頬を触れられ、蘭瑛は言葉に詰まった。永憐は何も言わず、瞳を揺らして傷を見つめている。すると永憐は呟くように囁いた。 「申し訳ない」 永憐からの謝罪に驚いた蘭瑛は、思わず永憐の顔を見つめる。その顔はとても悲しそうで、碧眼の上にある長い睫毛が僅かに揺れていた。見つめ合っていることに気づいた蘭瑛はすぐに目線を横に逸らし、ゆっくり口を開く。 「永憐様が悪い訳では…」 話を変えるかのよう蘭瑛は続ける。 「あ、あの…梅林さまの芋粥は…、まだありますか?」 「うん」 永憐の手がそっと頬から離れる。 なぜか、今まで感じたことのない冷たい感触が肌に残った。まるで、大きな雪片が頬に落ちたかのように、じんわりと小さなを儚さを残して…。 それから蘭瑛は、永憐に支えられながら隣の部屋に移動し、梅林特製の冷めても美味しい芋粥を啜った。 回復してからではないと、鳳明葯院《ほうみんやくいん》には送れないと永憐に言われ、蘭瑛は必死に六華術で折れた右脚を回復させていた。顔の腫れは随分と落ち着き、顎の噛み合わせも元に戻り、ようやく粥ではなく固形物を食べられるようになった。時々、秀綾に来てもらい心的外傷で負った不眠を、清命長宗《せいめいちょうしゅう》の法術でこっそり改善してもらったりもした。 蘭瑛は秀綾にあれから何か動きがあったか聞いてみると、秀綾曰く、梓林はあの日、「全て光華妃に言われてやった」と宇辰に吐いて死んでいったそうだ。あの場に居合わせた男たちも、打首に処された後、骨も残らず焼かれたようだ。 極刑の場合、宋長安では亡き骸すらも残されない。 首謀者の光華妃はというと、宋武帝に咎められたそうだが「私は知らない」と、今も堂々と扇子を仰いでいるらしい。 面の皮が厚い狡猾な女はどこにでもいる。 しかし、蘭瑛はもうどうでもいいと思っていた。早く華山に戻れればそれでいいと。 しばらくそのように過ごしていたある日、蘭瑛は突然、藍殿に来るようにと呼び出された。ようやく帰れると蘭瑛は胸を踊らせ、藍殿に向かって感慨深くゆっくり歩いていく。 すると、仏頂面の永憐が藍殿の門の前で腕を組んで待っている姿が見えた。 「永憐様?」 「来たか。ゆっくりでいい。着いてこい」 「は、はい…」 蘭瑛は首を傾げながら、永憐の後に続いた。 改めて永憐の背中を近くで見ると肩幅が広く、強靭な体格であることが分かる。少し前に湯堂で聞いた女子たちの言葉を、蘭瑛はふと思い出す。この身体に上から覆い被さられたらと、卑猥な妄想で声を裏返していた女子がいたが、確かに目の前にこんな逞しい身体が降りてくると思うと、少し戸惑うかもしれないと思った。それに、永憐の胸元はとても安定感があって、心地が良かったことを何故か名残惜しむかのように振り返る。 「何を考えている」 「い、いえっ。何も」 蘭瑛は真顔を見せ、すぐに邪念を塞ぐ。 そして、しばらく永憐の後ろを歩いていくと蘭瑛も行ったことのある場所に到着した。紫王殿《しおうでん》だ。 (最後に、宋武帝《そんぶてい》に挨拶をしろという訳か…) 蘭瑛は、永憐に続き紫王殿の中に入る。 紫王殿の護衛が客間の扉の前で、二人が来たことを宋武帝に伝えた。 「入れ」 渋く掠れた声が聞こえた後、永憐と蘭瑛は中に入り、宋武帝の前で拱手をした。 「お待たせしました。かの者を連れてまいりました」 「ん。よく来た。二人でそこに座るがよい」 永憐と蘭瑛は宋武帝と向かい合うように座り、蘭瑛は宋武帝の顔をしっかりと捉えた。前回薬を渡した時とは、若干痩せたようで雰囲気が違う。 蘭瑛はふと、誰かに似ていると思った。 だが、その誰かの名前が出てこず、出された茶が喉を通過する。 しばらくすると、宋武帝が口を開く。 「蘭瑛と言ったな。こたびは、身内のことで心身共に深傷を負わせてしまい申し訳なかった。責任は全て私のところにある。全て遠志宗主に経緯を報告し、六華鳳宗に納めてもらうよう詫びを送った」 蘭瑛は深く頭を下げた。 宋武帝は一息ついて、また続ける。 「君が華山から来てくれなければ、私の息子は恐らく助からなかっただろう…。六華鳳宗の功績を認め、礼を尽くしたい。そこでなんだが、君を宋長安の御用医家として認めたい。ここに引き続き居てもらうことはできないか?」 口角を少しだけ上げて、宋武帝が尋ねた。 蘭瑛は一瞬固まり、目を丸くする。 「…えっ⁈私が…、ご、御用医家ですか?」 「そうだ。宗主殿に相談したら、是非君をとの事だった」 (叔父上め…。俸禄を受け取れるからって、私を…) 蘭瑛は目元を引き攣らせながら、顔面蒼白になった。 ようやく帰れると思ったのに、まるで残しておいた大切な包子を、目の前で食べられたかのようだ。 蘭瑛は泣くに泣けず、笑うに笑えずといった様子で永憐の方を向く。 すると、永憐も蘭瑛の方を向き「そういうことだ」と、まるで受け入れるしかないと言わんばかりの澄まし顔で話す。 蘭瑛はほんの少し唇を尖らせ、永憐を見遣った。 そんな二人の姿を見ていた宋武帝は、小さく微笑む。 「衣食住は今まで通り心配しなくてもよい。そこにいる永憐が全てやってくれるだろう」 そう言って、宋武帝は袖を直しながら立ち上がった。 「では、蘭瑛。よろしく頼んだぞ」 「は、はい…」 こうして蘭瑛は帰省するという手段を絶たれ、正式に宋長安の御用医家となり、この宮殿内の人々の命を預かる流医となった。衝撃的な事実を知ってしまった蘭瑛は、あれから永憐と顔を合わすことがてきず、六華鳳宗へ帰らせてもらえないかと、宇辰を通して宋武帝に申し出た。 事情を知った宋武帝は、至急紫王殿に来るように蘭瑛を呼び寄せ、二人で話しをすることになった。 完全に正気を失った蘭瑛を見るやいなや、宋武帝は気を利かせ、今まで見たことのない豪華な花茶を差し出した。「呼び寄せて申し訳ないな。少し外で話そうか」「……は、はい」 随分と涼しさを感じる夜に、紫王殿の庭では蛍がふわふわと光り始めた。 外のカウチに腰を下ろし、宋武帝は蛍の光を目で追いながら静かに口を開く。「いずれはきちんと話さなければならないと思っていたのだが……永憐のことで、君を酷く傷つけてしまって申し訳ない。全ては私一族の責任だ。今更許しを乞うつもりはないが、当時、剣門山に所属していた永憐が、個人的な意思で君の父上を殺した訳ではないことは、どうか分かってやって欲しい。あれは、私の父上が理不尽に下した命令だったのだ……」 宋武帝は物寂しく空を仰いだ。 その横顔がどこか永憐に似ていて、蘭瑛はふと目線を逸らし、宋武帝の言葉を待った。 「永憐とは異父兄弟なんだ。この事実を知ったのは、十年ぐらい前だろうか。あいつは幼い倅を、祝言を控えていた妻の変わりに助けてくれてな……。せめてもの思いでここに呼んだんだが、少し気になるところがあって。ほら、私と顔が少し似ているだろう? だから、あいつの出自をこっそりと調べさせたんだ。そしたら、永憐はあの伝説の剣豪・冠月と母上の間に授かった子であると知って、それはそれは驚いたよ。私は永憐を弟だと思っているんだが、あいつは、自分を物凄く卑下な人間だと思っているらしく、自分は私の配下でいいと、皇弟として自分の立場を絶対に認めようとしないんだ」 何一つ自分のことを話さない永憐に、そんな秘密があったとは誰も知る由もない。 宋武帝は飛んでいる蛍を素手でそっと掴み、蘭瑛に見せながら続けた。「そんなあいつがある日突然、君を連れてきた。色欲も断ち、女の話に一寸とも触れようとしなかったあいつがだ。不器用で言葉足らずな奴だが、君には何か思うところがあったんだろう。誰よりも君のことを考えていたからな」 それは分かる。いつだって側
美しい月夜は儚げに消え去り、夢が覚めていくように二人の元に太陽が昇る。 「蘭瑛、朝だ。起きろ」 「…んーっ。ふぁい」 蘭瑛は欠伸をしながら上体を起こす。 永憐から寝巻きを渡され、寝台から降りて衣をさっと着る。 昨晩のことは途中までしか覚えておらず、途中から疲れ果てて眠ってしまったようだ。 「昨日はすまない。加減を忘れてしまっていた…。身体は大丈夫か?」 「…はい。大丈夫ですよ。私、途中で寝てしまったみたいですね。すみま…」 「せん」と続けようとした刹那、永憐に力強く抱きしめられた。 「嫌いにならないでくれ…」 「…ど、どうしたんですか?急に。永憐様を嫌いになる訳ないでしょう」 永憐は失うのが怖いといったような、どこか不安げな顔を蘭瑛に向けた。 今日から仙術の強化稽古が始まり、しばらく会えなくなると聞かされたが、稽古が終わったらまた会う約束をし、優しく口づけを交わした。 蘭瑛は隣の部屋に戻り、身支度を整えようと、寝巻きを脱いで鏡を見た。すると、首から下の上半身のありとあらゆる場所に、口づけの印を付けられていることに驚愕した。 (あれから、たくさん口づけされたんだっけ…。どうしよう…この無数の跡。何で隠そう…) 蘭瑛はとりあえず、葯箱から包帯を取り出し首元に巻き付けた。医局のオカマ医官に何か言われるかもしれないが、適当に遇らえば問題ない。蘭瑛は冷静さを保ちながら、医局へ向かった。 医局に到着すると案の定、オカマ医官二人に詰め寄られる。 「阿蘭、どうしたのよ?!その傷!ちょっと見せてみなさい」 「一体何をやったのよ…」 「だ、大丈夫だから!本当に直ぐ治る傷だし、二人の心配には及ばないから」 江医官と金医官は、目を細めて蘭瑛を一瞥する。 「阿蘭、また誰かに何かされたんじゃなくて?」 「ったく、女の首元に傷を負わすなんて、どういう神経してんのよ!もし男だったら、男根の先にこれを差し込んでやるんだから!」 金医官は、薬草を混ぜる先の尖った太い銅の棒を光らせた。これは、永憐にされたなんて口が裂けても言えないと、蘭瑛は思わず苦笑いを浮かべる。 「本当に大丈夫だから。六華術を復活させる為に色々やっちゃって…。それで」 「それで、六華術は復活したの?」 江医官に
もう逃げられないと意を決して、蘭瑛は急いで湯浴み処へ向かい、簡単に湯浴みを済ませた。 半乾きの髪を靡かせ、急ぎ足で藍殿へ戻る。 蘭瑛は永憐の部屋の扉の前で「ふぅー」と呼吸を整え、蝋燭の光が漏れている薄暗い奥の部屋に足を踏み入れた。 中に入ると、寝台の上で腰を下ろし、長い髪を垂らした寝巻き姿の永憐が待っていた。 「来たか」 「お待たせ…しました…」 蘭瑛は固唾を飲み、恐る恐る永憐の元へ歩み寄る。 永憐は真顔で、蘭瑛に向かって一言投げかけた。 「覚悟はあるのか?」 そう言われた蘭瑛は、その場で立ち止まった━︎━︎━︎。 決して覚悟がない訳ではない。ただ理由を話さなければと蘭瑛は六華術を回復させる為に、このような事を口走ったと話した。 「ならば、術の為にしたいということか?」 「いや、そ、それだけでは…」 蘭瑛はそれ以上何も言えず俯く。 永憐は間を置いて、もう一度問うた。 「どんな理由があっても、後悔しないか?」 蘭瑛は永憐の事を心から愛している。 いずれは夫婦の契りを交わしたいとさえ思っている。 術が回復することもそうだが、一番は永憐と口づけ以上の結びつきを得たいと心のどこかでは思う。そこに迷いや後悔はない。蘭瑛は心を決めたかのようにハッと顔を上げ、自分の衣の腰紐をしゅるっと外した。 「…しません。何があっても」 そう言いながら、蘭瑛は衣を少しはだけさせ、寝台の上へ登る。 そして、足を伸ばして座っていた永憐の上に跨り、永憐の目の前で衣を完全に脱いだ。 艶やかな肌を見せられた永憐は、蘭瑛の腰にそっと手を回し、蘭瑛の顔に自ら顔を近づけた。 「本当にいいんだな?」 「…はい」 息をする暇もなく、蘭瑛の唇は瞬く間に塞がれた。 永憐は何度も優しく向きを変え、蘭瑛の乾いた唇を湿らせていく。永憐の力強い舌遣いで閉じていた口をこじ開けられ、何度も舌を絡め取られた。舌を這わせ合うたび、水が弾くような音が部屋中に響き、鼻から漏れる荒い息が熱く交わる。 露わになった胸を何度も揉まれ、永憐の細長くて力強い指先で、先の突起を何度も弄られた。 身体全体に体験した事のない電流が走り、蘭瑛は我慢できず「んんっ」と思わず声を漏らす。唇が離れ、互い
それから、今までの輝かしい穏やかな橙仙南の色は消え、朱源陽の武官たちは橙仙南の庶民たちを蔑ろに扱うようになり、逆らおうものなら直ちに打首にされるという理不尽な内乱が勃発した。 橙仙南の一部の軍は朱源陽の傘下に入る者もいたが、深豊《シェンフォン》率いる軍は主に宋武帝の配下に身を置き、永憐たちと並ぶ形で桃園の義を交わした。 朱源陽の理不尽な要求や暴力が日に日に増していくことを懸念した宋武帝は、橙仙南の難民たちを宋長安へ避難させた。宋長安に住む人々の人柄は他所者を嫌う性格ではない為、難民たちとの間には争いや弊害などは生まれず、互いを尊重しあう形で生業を保つことができた。 秋めいてきた夕暮れの下で、蜻蛉の美しい複眼が、飛び回る害虫のハエを捉える。 瞬きをしたほんの僅かの間に、ハエは蜻蛉の口元で砕かれ、もう一度瞬きをした後にはもうハエはいない。 その卓越した動体視覚と俊敏さを駆使して、獲物を一瞬にして捕える。さすが勝利の虫だ。 その様子を窓越しから見ていた宋武帝は、永憐と深豊を紫王殿に呼び出し、向かい合っていた。 何を言われるのか大体想像のつく二人は、出された茶を啜りながら宋武帝の言葉を待つ。 「蜻蛉のようにならねばならんな…」 宋武帝はぼそっと独り言を呟いた。 そして目線を二人に戻し、続ける。 「今後のことについてなんだが…。いつ、朱源陽の矢がこちらに飛んでくるか分からない。いつでもその戦火が飛び込んできてもいいように、お前たち全員が持つ仙術の強化を図って欲しい。それに伴い、宋長安管轄の剣士たちも各方面から呼び寄せることになった。お前たち二人が師範となり、全体の底上げを頼む」 永憐と深豊は、同時に頷き『御意』と返事をした。 力強い二人の返事を聞いた宋武帝は、顔を緩ませ穏やかな表情を向ける。 「お前たちが居れば、私に怖いものなどない」 「全力でお守りします」 「橙仙南を代表して私も…」 永憐の後に続けて、深豊も誠意を表すように言葉を繋げた。 一方、蘭瑛のいる医局では環境に慣れず体調を崩す橙仙南の者たちが多く、問診に追われていた。 「食欲がなくて…」 「気持ちが塞ぎがちで…」 「涙が止まら
「何故お前がここにいる?」 「おっと、これはこれは王国師殿。いやぁ〜、物凄い霊気を感じたので様子を見に来たんですよ。そしたら、あなたに出会した。何か特殊な霊気でも出されたのですか?」 目の前にいる端栄は先程会った端栄と同じだ。 しかし、感じた違和感をどうしても拭えない永憐はまた尋ねる。 「私ではない。剣先を光らせたのはお前か?」 「はて?私はそんな物騒なことはしませんよ。誰かと勘違いなさってるのでは?」 確かに感じた玄天遊鬼の霊気。今はパタリと消え、何も感じない。端栄が続ける。 「まぁ、ここは妖魔が頻繁に出没しますから気をつけてください。あなたとやり合って腕を無くしたまま朱源陽に帰るわけにはいきませんから、今日はあなたではなく、こちらの方に」 すると突然、端栄は蘭瑛に向かって瞬間移動するかのように飛び出し、永憐の隣にいた蘭瑛の身体を軽く突いた。 蘭瑛は急に眩暈を起こし、足元から崩れ落ちる。 「おい、蘭瑛!しっかりしろ!貴様!蘭瑛に何をした?!」 永憐は珍しく声を張り上げ、永冠の先を端栄へ向ける。 「彼女を抱えながら私と戦うのは無理でしょう。彼女の医術は素晴らしいと、玉針経宗の医家が言っていましたからね〜。術滅印で六華術を封じてみました。これで、あなたが今深傷を負っても彼女はあなたを救えない。気をつけてくださいね。それでは」 端栄が瞬時に消えた途端、黒い靄が周囲に広がり永憐の透き通った視界は瞬く間に遮られた。その靄から幾度となく屍が溢れ出し、永憐は意識のない蘭瑛を抱き抱え、蘭瑛が嵌めている翡翠の指輪に更なる強力な守護術をかけた。そして探知術を同時に発動し、永憐は全身に駆け巡る全神経を尖らせ永冠を振るう。何度も袍を翻しながら屍を次々と殺していくのだが…。 しばらくすると、驟雨が永憐の足元を濡らし始めた。 蘭瑛の頬にも驟雨が落ち、きめ細かい白い肌を伝って滴り落ちていく。 最後の屍を斬ろうとした刹那、突然黒い靄が消え、視界が明るくなったと同時に鋭利な刃を持つ鴛鴦鉞が永憐と蘭瑛を目掛けて飛んできた! 永憐は永冠で同時に躱したが、視界の眩しさに耐えられず、もう一発の鴛鴦鉞に気づかなかった。
永憐たちが橙剛俊の宮殿内に着くと、先に来ていた宋武帝と橙剛俊が激しく口論していた。 「兄上がこのような惨虐に見舞われたというのに、どうして平然としていられるのだ?!」 「奴は死ぬべきして死んだんだ!私には関係ない!」 橙剛俊は憤慨し眼球を赤くして捲し立てる。 宋武帝も額に青筋を浮かべて、今にも殴りかかりそうな衝動を抑えながら拳を振るわせていた。 「お前、何か企んでいるのか?!」 「はっ。何を企んでいようと私の勝手だ。あんたには関係ない。今まで散々あいつに振り回され続けたんだ!今こそ橙仙南は自由になるべきだろ!あんたこそ橙仙南を心配してる場合か?あんな奴を心配する前に、自国の心配をしたらどうだ?倅を残してきたんだろ?大丈夫なのか?」 宋武帝は遂に堪忍袋が切れ、橙剛俊の顔を思いっきり殴った。橙武帝が今までどれだけの功績を残し、橙仙南の繁栄を守ってきたか。四国会の統治を守ってくれたのも橙武帝がいたからだ。 橙剛俊は床に伏して赤く腫れ上がった頬を摩る。 「お前とは桃園の儀を結べそうにない。お前が誰かと手を組みその者たちの所へ行くのなら勝手にしろ。しかし、橙武帝を侮辱するような真似は許さない!覚えておけ!」 そう言って宋武帝は踵を返す。 すると橙剛俊は唇を震わせながら、宋武帝の背中に向かって叫んだ。 「あんたこそ、これからどうなっても知らないからな!そこにいるお前らも出て行け!」 ずっと様子を伺っていた永憐の元に宋武帝が来る。 「永憐。私は先に帰る。頃合いを見て帰ってこい」 「分かりました。私たちもここを出よう」 永憐たちは宋武帝の後に続き、救いようのない愚か者を置いて宮殿を出た。 先に帰る宋武帝に宇辰が護衛として付き添うことになり、永憐と深豊は二人を見送る。そして、歩きながら深豊が口を開いた。 「まったく、どうなっちまうんだよ…これから」 深豊は溜め息を吐きながら、門の近くにある石畳みの階段に腰を下ろす。 永憐は何も言わず、遠くを見るように目線を上げて空を仰いだ。永憐の碧色の瞳には雲の模様が浮かび、わざと一抹の不安と恋慕を掻き消しているようにも見えた。 するとそこに、橙剛俊の倅・橙風宇が一人、日傘で顔を隠す様にしてやってきた。 「兄様方にお話しがご